小林準治 インタビュー
アニメにはアニメの表現力がある。

── 手塚先生との関わりはいつからですか?
僕は1978年に手塚プロ(アニメ部)創設に参画しました。途中2年間くらいフリーだった頃があるから、勤続40 年くらいかな。会社に入った頃は、とにかくアニメで忙しかった。先生も現場にしょっちゅう来てね。当時は連載が5~ 6 本あったから、とにかく忙しくて。でも天才的なスピードだから、アニメ班も自分のようにできると思ってるんだけど、誰も先生みたいには働けなかったです。働き出して少し経った1981年に、先生から「実験的なアニメーションをつくるので手伝ってくれ」って言われたんです。『ジャンピング』という作品で、本当は自分でやりたいけどマンガでできないからって。

── どうして小林さんが選ばれたんでしょう。
1980 年に『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』という作品の背景動画を僕がやったんですよ。ワンカットの長回しのような動画だったんですよね。それを観た先生が僕がいいと言ってくださったみたいで。まさにそういう短編作品を作りたいと。

── 大抜擢ですね。
先生が考えたのは、一人称の視点がジャンプしながら森や林を飛び跳ねていく、わすか6分ほどの短編アニメでした。元ネタはハンガリーの『ハエ』(1980)という、ハエの視点で描かれた短編アニメで、先生はこの影響を受けて「俺ならこう作る!」と思ったようです。あのときの世界情勢って、フォークランド紛争やシドラ湾事件といった、いろんな事件があったんですよ。だからよく見るとそういう社会問題を想起させる要素がたくさん入っている。バッタが出てくるのは先生の趣味であり、僕の趣味。先生と同じくらい僕も昆虫が好きだから、飲み会ではよく虫の話をしたもんですよ。

── 先生の当時の思いが色々と詰め込まれているんですね。線路に寝転ぶ人物の描写は?
あれは先生が得意とするマンガ的な展開ですよね。コマ割りのように、パッと世界観が切り替わる。やっぱりマンガ家としての視点が生きていて、劇画的なものもあるけど、通底するのはファンタジーなんですよ。

── 絵コンテは先生が描いて、小林さんがアニメーション化していったわけですね。
そうですね。僕ひとりで4000 枚くらい描きました。でも絵コンテがなかなか出なくて。僕も別の仕事があるから、「先生まだですか?」って追い立てるんだけど「今日の夜には出します!」とか言うんですよ。でも出ない。打ち合わせも、夜中の12時にやろうって言われて、僕はずっと待ってたんですけど、2時になっても3時になっても来ない。もうしょっちゅうでした。先生といつ打ち合わせをしたか、全部制作ノートに書きつけていますよ(笑)。

── でも二人三脚で、これまでのテイストとはまるで違う短編が生まれましたよね。
先生はアヌシー国際アニメーション映画祭に出品しようと思って作ってたんです。結果的にそれは叶わなかったんですが、完成後の1984 年にザグレブ国際アニメーション・フィルム・フェスティバルでグランプリを受賞しました。それはすごく嬉しかったですね。

── そして今、小林さんは新たにワンカットの短編作品を作ってらっしゃると聞きました。
そうなんです。クマバチが自由自在に空を飛び、その目でみた風景が大迫力で迫ってくる。バックグラウンドではクラシックが流れます。これは、『ジャンピング』ともまた違う、手塚先生がやりたかったことのひとつなんです。というのも、先生はずっと、クラシックとアニメの融合というのを求めていたんです。『ファンタジア』のように、音とアニメが共鳴するような作品を作りたいという構想がずっとあった。なのでこの『クマバチが飛ぶ』は、クラシックに合わせて縦横無尽にスクリーンのなかを飛び回ります。

── 手塚先生の意志を継いで、制作されているわけですね。
2分くらいの作品ですが、全て絵の具で着色しようと思っています。かなり目と体力を使うんですが、一枚ずつ丁寧に仕上げていますよ。「あれっ?」という仕掛けも入っています。

── 今や様々な表現方法がありますが、小林さんはどんなところにアニメの魅力を感じてらっしゃるのでしょう?
今のアニメってすごく実写的なんですよね。現実と変わらない等身のキャラクターや、写真のような背景が当たり前になっているし、デジタルでとんでもない映像が簡単に作れる。でもアニメには、アニメーションならではの動きの面白さがあります。だから僕はこれからもアニメにこだわっていきたいんですよ。

小林準治
1948 年東京生まれ。1978 年に手塚治虫の手塚プロダクション(アニメ部)創設に参画。TV アニメ『ジャングル大帝』の作画監督を務める。手塚治虫との共著書に「手塚治虫昆虫図鑑」「手塚治虫博物館」「手塚治虫クラシック音楽館」などがある。