人間国宝を訪ねて③
井上 萬二 陶芸/白磁

人間国宝とは、重要無形文化財保持者のこと
井上萬二は戦時中、少年たちの誰もがそうであったように、軍人になるのが夢だった。なにしろ、軍国主義の時代である。鉛筆をハンマーに替え、少年少女も軍需工場で働いた。萬二は、エリート軍人になるために江田島の海軍兵学校に入りたかったが、年齢が足りず、15歳でも許される海軍飛行予科練習生、予科練となる。
ここで、国語、幾何、物理、英語といった普通学と、軍事学、武技など、多岐にわたる学問をみっちり学び、強靱な精神力を叩き込まれた。海軍鹿屋航空隊に配属され、特攻隊員として訓練を積む。周りが次々と飛び立っていく中で、次こそは自分だと待機している時に終戦を迎えた。「すべてがいい経験だった」と、今は静かに述懐する。
萬二の父は有田で30名ほどの職人を抱える窯元だった。戦時中は閉鎖していたが、戦後、「やきものは平和産業にふさわしい。だから、やきものの道に進んでほしい。飯は食わせるから無給で学べ」と、柿右衛門窯に入門することを勧められる。ここで7年間、ひたすら修業に励む。「周囲に“遊”の世界がなかったから、勉強にはいい環境だったですよ」。だが年を重ねるうち、こんな生活がいつまで続くのかと思い始め、そのうち、金も欲しい、遊びもしたいと迷いが出るようになった。

そんなとき、自衛隊が発足され、愛国心が揺さぶられた。だが同じ頃、名工と称されるろくろ師、初代奥川忠右衛門との出会いがあり、精進に拍車がかかることになる。「有田のやきものは、この人のおかげで発展したといってもいいくらい、神業的な技術を持っていた。給与も他の技術者の3倍ぐらいもらっていたのです」。どうせやるなら、この人に師事したい。ところが、弟子は取らないという。そこを何とかと頼み込み、夕方から、あるいは週末に奥川の家に通い、手伝いをしつつ、特殊な技法を習得する。しばらくすると、萬二の作品はひっぱりだこの人気となり、高収入を得られるようになっていた。でも、ここで慢心しないところが萬二である。
「やきものというのは、まず形を生み出すところから始まる。だから、ろくろが主。そのろくろで、名工の域までは達してなくても、他の追随を許さないくらいにはなった。ただ、それだけでは足りないと思ったんですね」

右/工房での制作風景。カナで削り、形を整える。
もっと幅広く奥深くやきものを学びたい。そのために、佐賀県の窯業試験場の技官に転身する。つまり、公務員だ。そのときの給料が1万3千円。売れっ子作家だった頃の5分の1に減ったけれど、あとで聞くと、2歳年上の10年勤続の先輩の給与と同じだった。「実は、とてもいい待遇だったんです」。ここで、釉薬、窯、陶土、デザインなど、ひたすら勉強を重ねる。13年勤め上げたのち退職するのだが、その1年前のこと。ペンシルベニア州立大学で、日本の伝統工芸について半年間教えてほしいという依頼が舞い込む。
条件は単身であること、報酬は月2000ドル(約70万円)、通訳はいないので英語が話せること、この三つだった。戦時中、敵国の言葉ゆえ、一般人が英語を使うことはご法度だったが、萬二には、情報傍受のために予科練で学んだ英語の基礎がある。渡米までの3カ月間、みっちり単語を覚えていった。
大学では、翌日の講義のために、ベッドの中で英語を必死になって勉強するという日々。見事、半年間をやり抜いた。このとき「イングランドから送らせた」粉を調合して磁器の陶土を作製したり、電動ろくろを導入したりして、アメリカ人たちを驚かせた。その陶土の調合も、電動ろくろも、現在もアメリカ全土で使われているという。
「アメリカはあまり伝統のない国ですから、新しい美意識がある。日本は長い伝統に培われたオールドの美意識がある。その双方を融合させたら、いい作品ができるのではないか。大学に教えに行ったけれど、いい勉強の機会を与えてもらったと思っています」

アメリカへはその後、2年おきに講義に出かけたが、それだけに留まらず、アメリカとの交流はその後も続く。帰国して1年後の1970年、萬二は「自分の世界を築くため」独立。自らの名を冠した井上萬二窯を開く。
独立に際しては、東京の知人である実業家夫妻の大きな支援があった。公務員時代、出張するたびに、まるで息子のようにかわいがってくれ、「窯業試験場でしっかり勉強して、早く独立しなさい」と励ましてくれた。この夫婦、岩波ホールの支配人だった高野悦子の両親、高野與作夫妻だという。東京滞在中は、毎朝2時間ほど、経済、政治、哲学など幅広い教養教育を施してもくれた。独立の際の心配ごとだった販路に関しても、最大限の協力を惜しまなかった大恩人である。
「第一の出会い、奥川忠右衛門に加え、これが第二の出会い。まことに人の縁というのは異なもので、大切だなぁと思います」
彩色、加飾が伝統の有田焼において、萬二はなぜ白磁をつくり続けるのか。

「かつて、陶土には不純物が多かった。それを加飾で補っていたんですね。でも今は技術の進歩で除去できる。美しい白磁がつくれる時代なんです。ろくろで究極の形を見出したら、絵付けは必要ない。最高の美人に化粧はいらないでしょ?」
卒寿を目前にしてなお、萬二の創作意欲は衰えるところを知らない。むしろ、その情熱は増すばかりである。
「技が熟してくれば、アイデアはいくらでも浮かんでくるものなんです」。萬二の趣味は旅行。旅の中から生まれるアイデアも多くある。「各地の文化が間接的に“美”となる」。たとえば、「渦文」(タイトル横の作品:青白磁渦文壺 直径29.6×高さ24cm 参照)は、岡山から四国に渡る際に見た、鳴門の渦潮からの発想だ。「旅をすると必ず、その地の護国神社に行くのです。なぜかというと、そこには、武勲功績を称える碑文がある。それに感銘を受けるんです」。
また、制作の途中で浮かぶこともある。「一つの意図のもとに作品をつくっているんですが、途中、とてもいい瞬間があったりする。その作品は意図通りに仕上げてしまうのですが、いいと思った瞬間を脳裏に留めておいて、あとでその造形に挑戦してみるんです。そんなふうに、仕事をすればするほど、アイデアが出てくる」。毎日のトイレタイムも貴重だ。とても広いトイレなのだというが、毎日半時間は座る。浮かんだアイデアはメモ帳に記す。また、夜中に目を覚ますと、2時間は眠れない。そこでもまた、アイデアが浮かぶ。

中央/この土が白磁の美しい肌を生む。
「今度トライしてみようというアイデアが山のようにある。自分にもまだ、望みがあると感じます。常にクリエートすることが大事。そして、チャレンジ精神を忘れない。終生、勉強なんです」。現在、萬二が心血を注ぐのは、後継者の育成である。2017年、佐賀大学と佐賀県立有田窯業大学校が統合し、佐賀大学有田キャンパスに生まれ変わった。ここでセラミック専門顧問となり、理論を講義している。テクノロジーの進化によって技術革新が起き、初心者でもそれなりの作品がつくれる時代だが、昔は蹴りろくろで、習得するまでに4~5年はかかったものである。
窯も薪窯で、炎でもってやきものをつくっていた。そういう手仕事の原点を知った上で、新しい世界を生み出すことが重要だ。「有田焼400年の伝統の技を受け継いで、平成の伝統をつくる。それが我々に課せられた使命だと思っています。若い人たちの若い感覚が貴重です。若いセンスと先人たちの知恵をミックスしながら、時代、時代の伝統をつくる。それが大事」。そのための人材育成に努力を惜しまない。
萬二の魂の根底に常にあるのは、「幾百万の英霊たち」への鎮魂だろう。その犠牲の上に今の平和がある。自分にできることがあるならば、命の限り尽くしていきたい。自己管理と日々の精進を怠らず、未来に向かって歩むことが、英霊たちへの餞(はなむけ)となり、心を打つ作品の原動力となっている。
井上 萬二(いのうえ・まんじ)
1929年佐賀県生まれ。1968年日本伝統工芸展入選。1969年ペンシルベニア州立大学で作陶指導のため渡米。以後、国内外で指導者として手腕を発揮。1995年重要無形文化財「白磁」保持者に認定される。
photographs Ryo Shirai
text Michiko Watanabe
お帳場通信 2018 秋号 掲載