人間国宝を訪ねて⑤
北村 昭斎 漆芸/螺鈿

人間国宝とは、重要無形文化財のこと
漆の仕事に携わって三代目となる北村昭斎。だが、家系を辿れば、漆とのつながりはもっと深い。曾祖父にあたる吉田陽哉は、東大寺や春日大社の塗師(ぬし)で、奈良漆工芸の先駆者でもあった。
その長男・立斎は、正倉院宝物や玉虫厨子をはじめとする文化財修復にあたり、東大寺の昭和の大修理では大仏殿の鴟尾(しび)を担当。昭斎は子供の頃、輝く鴟尾を、「おじいさんの兄弟が手がけた仕事だ」と見上げていたという。
次男である祖父・久斎は、母方の姓を継いで北村となり、正倉院宝物の修復模造、また、平等院の修理などにも携わる。父・大通も、工芸制作に励む傍ら、多くの文化財の修理、復元模型の制作に従事した。代々続く、宝物の修復、復元模造は、昭斎はもちろん、四代目の繁にも確かに受け継がれている。
「奈良は、昔は塗師の家が多かったようです。たとえば、お水取りのときにおこもりの僧が『食作法(じきさほう)』をする一尺四寸の朱のお盆を作ったり(民間では名品の写しも多く作られた)。奈良という土地柄の仕事があるんです」。

右/結び文螺鈿箱(むすびぶみらでんばこ)
1999年、昭斎は重要無形文化財「螺鈿」保持者に認定される。「螺鈿」とは何か。「螺鈿」の「螺」は巻き貝のこと、「鈿」は飾るの意。漆面に切った文様の貝をはめ込んで研ぎ出す技法だ。アトリエで、材料となる貝を見せていただく。
白蝶貝、黒蝶貝、夜光貝、メキシコ鮑、鼈甲などなど。貝の原形から、大小の板状に切ったもの、カーブを生かすものなど、いろんな形、いろんな曲面、いろんな厚さのものが、「使う、使わないにかかわらず」ストックされている。「ま、腐りませんからね(笑)」。
大きなサザエのような夜光貝は、沖縄では一般的に食用として親しまれているもの。大きい部分では、正倉院の螺鈿紫檀五絃琵琶のラクダの足に6.1cm×2.5cmの貝が使われている。「貝の外側を表に使うと、凸レンズのような、膨らんだ輝きがあるんです」。
ウミガメの甲羅である鼈甲を広い面にしたい場合は、熱を加えて接着して大きな板を作る。白蝶貝は大きい貝だ。広い面がとれるし、湾曲した部分も用いる。薄貝は多少柔軟性があるので、割貝にして用いる。「僕は厚貝を主に使いますが、薄い貝を割貝にして使う人もいます」。

右/螺鈿箱「春庭散椿(はるにわちりつばき)」
メキシコ鮑は、「内側が不思議な色をしてるでしょ。黒田辰秋先生は、このメキシコ鮑を用いて耀貝螺鈿の技法を確立されました」。鮑は、室町時代頃から使われるようになったそうだ。そして黒蝶貝は、黒真珠の養殖に使われている貝で、螺鈿箱「春庭散椿(はるにわちりつばき)」(右上)の葉などに用いられている。
貝はすりおろして薄くすることもあれば、煮貝といって、お湯である程度の時間炊いて、真珠層の重なりを剥離させ、薄くして用いる場合もある。
奈良は、厚貝螺鈿が多い。その技法や道具の多くは、古きに学ぶことから始まる。「教科書はありませんからね」。たとえば、正倉院などの古いものを見て、復元的にやってみる。多分こうしたのだろうと推測しつつ、やってみて、探っていく。「こんな厚くて固い貝を、どんな道具で切ったのかわからないんですね。だから、東南アジアで行われている技法などでも、実験してみるわけです」。

中/繧繝蒔絵螺鈿盆(うんげんまきえらでんぼん)
右/材料の貝は、こんなふうに細かく切ったものも。
まず、貝をどう切るのか。単純な形ならば、ハサミとかペンチのようなもので、バリバリと割ればいい。細かいところはヤスリで整える。でも、それだけでは、正倉院の宝物の文様にある宝相華(ほうそうげ)の繊細な茎は作れない。
では、違う方法か。貝の周囲に、小さい穴をたくさん開けておいて、パリンと割るか。でも、それも限界がある。昔の文様のはがれた貝の断面を見ると、真っ直ぐに切れているのがわかる。何か、道具で切ったに違いない。そんなふうに予測し、実験を重ねていくのである。まるで、考古学のようだ。
大昔から穴を開ける道具はある。だから、中を抜きたいときは、真ん中に穴を開け、刃を通して周囲に向かって切ったに違いない。では、刃は? 硬質な針金をタガネでトントンと打ちつけると、糸のこの刃のような状態になる。「それで切ってみると」と、昭斎は机の前に座って、貝の破片を切り始めた。
手作りの刃の切り跡は柔らかかった。古い螺鈿の貝の切断面も柔らかく、似たような仕上がりだ。もしかして、こんな道具だったのかもしれない。そんなふうにして、文様の抜け落ちた跡などから、推測していくのである。
正倉院の螺鈿文様は大きく、材料のコントラストによる文様が構成されている。その広い面に鋭利な刃物で見事な線彫りを入れることで、絵画性を帯びてくる。たとえば、葉っぱの葉脈、鳥のくちばしや目、尾羽などは深い毛彫りが入ることで生動感が生まれる。平安・鎌倉時代になると、文様の切り抜きや毛彫りがいっそう細かくなってくる。
ということは、何か、道具の変革があったのか。と、また推測が始まる。繊細な切り抜き文様が作れれば、毛彫りの必要はない。だから、その技法は次第に使われなくなるのだ。「道具や技術の変革が、こんな作品をもたらすのか。そういうことを考えるのがおもしろいんです」。

右/椿折枝文螺鈿箱(つばきおりえだもんらでんばこ)
小さな椿を散らした「椿折枝文螺鈿箱(つばきおりえだもんらでんばこ)」(右上)を拝見して、取材チームの女性陣からため息が漏れた。「なんて、愛らしい」。北村昭斎の作品の中でも、椿や牡丹など、花を描いたシリーズは好評で、とくに女性の人気が高いという。「家内も最初にできたときは、ものすごく喜んで、売らないでくれといっていたほどです」。
椿の花弁の色が内側から外に向かって、ほんのりグラデーションになっていたり、柔らかな色合いで、見れば見るほど艶めかしい。角度を変えて眺めると、また違った光を放つ。この技法、あるとき、北村が思いついたものだ。1997年頃にはすでに着手していたという。
それまでは、繊細な表現をしたい場合、すでにはめ込んである貝の中に、別の色の貝を二重象嵌して、「かなり緻密なことをしていました」。でも、どうしても輪郭がハッキリしてしまって、固い表現になってしまう。もちろん、そのよさもあるにはあるのだが。
何とか、もっとソフトな表現はできないかと試すうち、「着色」することを思いつく。そして到達したのが、貝の表面を荒らしてから、漆と顔料を合わせたものを塗ることだった。
つるつるの貝の上に色をつけることをイメージすると、ハッキリした色が出そうに思うが、貝が持つ強い輝きがやわらぎ、マットな感じに仕上がる。しかし、下からの貝の輝きは残り、貝の美しさを損なわず、柔らかな色を表現することができた。着色技法と貝そのままの色の組み合わせ。表現の幅がまた広がった。

蓋を開けると中から小箱が。
二十数年、毎年いろんな試みを重ねてきた。そして、毎年、おもしろいことを発見している。最近は、木地も自分で作っている。ひのきの薄い板を曲げたり積層したりして箱や盛器を作る。指物ではなく、薄い板を用い、底の形を決めて、側面の輪郭を作っていく方法だ。修復など、息子たちが協力してくれるようになり、自分の制作に少し時間がとれるようになったことがありがたい。
やりたいことは山積みなのだ。年とともに求めるようになったのが、渋い美しさ。でも、「枯れる」のとはちょっと違う。たとえば、時代がかった、渋くて「透ける」漆の色を出してみるとか、地味な箱を開けてビックリ、小箱が4つもピシッと収まっている、といったことである。
玄関の扁額に「先種庵」とある。「漆の仕事をしようと思うなら、漆の種を蒔きなさい、という意味。基礎を培って仕事をすることの大事を説いたものです」。昭斎の仕事そのものではないか。
北村 昭斎(きたむら・しょうさい)
1938年奈良市生まれ。東京藝術大学卒業。早川電機工業(現シャープ)工業デザイン部門を経て、父・大通に師事。父と数多くの文化財の修理、復元に携わる。1998年紫綬褒章受章。1999年重要無形文化財「螺鈿」保持者に認定。
photographs Ryo Shirai
text Michiko Watanabe
お帳場通信 2015-16 冬号 掲載