人間国宝を訪ねて⑥
𠮷田 美統 陶芸/釉裏金彩

人間国宝とは、重要無形文化財保持者のこと
小雪舞う石川県小松市の〈錦山窯〉へ。といっても、小さな看板があるだけで、ごく普通の家に見える。このあたり、よく見ると、似たような工房が点在している。大概は「上絵付」のこぢんまりした工房だそうだ。
𠮷田美統は手に煙草を持って現れた。作品のひとつである、美しい紫色の灰落としを思い出した。どうやら、愛煙家らしい。語り口は穏やか、そして温かい。
𠮷田が極めた「釉裏金彩(ゆうりきんさい)」とはいかなるものなのか。一般的には、「器胎に金箔や金粉で文様を描いて、上から透明の釉薬をかけて焼き上げたもの」である。この技法の芽生えは、昭和30年代後半のことだ。

1865年(慶応元年)、永楽和全によって作られた金襴手(きんらんで)。全面を赤で下塗りし、その上に金のみで彩色するという豪華絢爛なものである。ところが、いかに名人が作ったものといえど、金彩ははがれていくのが宿命だった。何か方法はないものか。そのひとつが「上から透明釉薬をかけて焼きつける」ことだった。
いろいろな人が挑戦するも、ほとんどうまくいかない。ところが一人成功させた者がいた。九谷焼作家・竹田有恒である。1966年第12回日本伝統工芸展に「沈金彩萌黄釉鉢(ちんきんさいもえぎゆうばち)」を発表する。器胎に金箔を貼り、厚く緑釉をかけたものであるが、「沈金は漆の手法」との声があり、後に「釉裏金彩」と改称(1969年)される。してみれば、新技法・釉裏金彩の祖は、この竹田ということになる。
𠮷田の釉裏金彩は、竹田のそれを倣ったものではない。
「沈金……」の名で竹田が発表した翌年、第13回日本伝統工芸展には、重要無形文化財「色絵磁器」保持者(人間国宝)、加藤土師萌(はじめ)が「釉裏金彩波文平水指(ゆうりきんさいはもんひらみずさし)」を発表。釉裏金彩という言葉はすでにこのときから使われていたようである。
加藤は、1968年、新宮殿に奉納する「萌葱金襴手菊文蓋付大飾壺(もえぎきんらんできくもんふたつきおおかざりつぼ)」を、文字通り命を賭して制作中、完成を目前に世を去る。その遺作展で出会った、アーティスティックな釉裏金彩の作品に、𠮷田は感銘を受け、自らも挑戦することを決める。
「佐賀・嬉野の小野珀子さんも加藤先生の作品に刺激されて、釉裏金彩に取り組まれたと聞いています」

右/金箔と和紙は、こんな風に重ねられている。
竹田が金彩を施す器胎が陶土であるのに比して、小野は器胎が磁土。そんな風に、さまざまな陶芸家たちが、この新技法にトライする中、𠮷田は考えた。大半の釉裏金彩は、金箔を器胎一面に貼り、絵を色絵で描くパターン。あるいは、せいぜい幾何学模様がいいところだ。絵付けを専門とする自分がやるとすれば、箔を単調に切り抜くのではなく、「絵画の仕事」をしてみたい。
「厚みが同じだと、金襴手みたいでおもしろくないでしょう。たとえば、葉っぱは薄くして、花を厚くする。そうすることで奥行きが出て、〝絵らしく〟なるのではないか」
新しいことに挑戦する際に困難はつきものである。焼成によって、金箔が釉薬に溶け出し、なくなってしまうことも多々あった。金箔の厚みもいろいろと試した。
「元々、我が家は金の扱いに長けている。箔屋も常に出入りしている。注文もつけやすいですからね。そして、一番薄い箔を集めて重ね、截金(きりがね)と同じ技法はどうだろうか、と考えました。ところが、焼きものでそんなことをやっていると、重なったところにピンホールができたりする。産地も近いので、そういう厚みに打ってもらえんだろうか、と思いまして。そしたら打てるというんです。2種類の薄手、厚手の金(3枚重ね、5枚重ね)を用いることにしました」
1万分の3ミリ、1万分の5ミリといったミクロンの世界である。
何度も何度もテストを重ね、記録をとった。どちらかというと理数系の頭脳を持つ𠮷田にとっては、計算化学が必要な、こういった実験は苦手ではなかったろう。そして、ひとまずの完成を見たのが、「い草文」だった。

右上/工房の一番奥にある𠮷田のアトリエ。
右下/釉裏金彩雲錦文(ゆうりきんさいうんきんもん)灰落とし
勢いある直線で描かれた、金色のい草が萌黄色に映える。このとき、金箔を切った道具はカッター。だから表現は直線。ハサミで切ろうとすると、静電気のせいで金箔が刃にくっついてしまうのだ。丸い玉はパンチングで開けたという。よく見ると、トンボもいる。モダン、シャープ。見たことのない世界だった。だが、日本伝統工芸展に出すも、評判は今ひとつだったという。
それからがほんとうの試行錯誤。自分の思いのままの文様にするためには、優秀な道具が必要だった。ハサミもいろいろ試してみた。工作用、裁縫用……。どれもうまくいかない。そこに、友人の外科医からアドバイスが。「手術用のハサミはどうだ?」。錆びないし、キレ味抜群。これだと思った。いくら慣れているとはいえ、金箔は極薄で扱いは難しい。すると、取引先の箔屋が和紙と和紙の間に挟んで切ってはどうかと提案してくれた。
オペ用のハサミ、和紙で挟んだ金箔。道具立てが揃ってきた。「ところが、金箔と和紙を指で挟んでいると、シビレてくるんです」。何かいいものはないのか。意外なことに、髪の毛を挟むダブルピンが役に立った。これで完璧。「でも、もっといいものないかなと、常に手に合った道具を探しています」。
和紙で挟んだ金箔をダブルピンで留め、下絵に沿って切り出していく。金箔の準備が整うと、淡い色調の釉薬で仕上げられた器地に描いた下絵を、ふのりを水で緩めながらなぞり、その上に、素早く間の和紙を取り除きながら、重ねた金箔をのせていく。絵筆でちょいちょいと調整しながら、次第に、金箔で絵柄を描いていく。息を詰めての作業だが、傍目からは、まったく力が入っていないように映る。匠ならではの作業風景である。
こうして、自分ならではの手法を確立させるまでに4年を要したという。

中/下絵。重ねた金箔を、小さなパーツに切り分けていく。
右/オペ用のハサミで切り出していく。
戦争中に父が他界したため、𠮷田は19歳で〈錦山窯〉の三代目となる。戦争が激しくなってくると、職人も出征していておらず、薪も手に入らない。金彩に使用する金は配給制。そんな中でも、〈錦山窯〉は結構派手なものを作っていたという。戦争が終わると職人も戻り、比較的早く九谷焼は復興される。進駐軍のスーベニアとして、浮世絵といった日本的な図柄が喜ばれたことにより、制作が盛んに行われたからだ。
𠮷田は、高校在学中から、二代德田八十吉や職人たちから技術を学び、後継ぎとなってからは、石川県立工芸指導所の実技講習や、武蔵野美術大学のクラフトに関する講義を受講し、意匠の勉強も続けてきた。
ちょうどその頃、クラフトセンター・ジャパン設立。味わい深く質の高いクラフトを世の中にもっと知らしめ、使ってもらうことで、技術、資源の継承と、産地の経済振興を目指すという主旨の活動が始まると、𠮷田も大いに鼓舞され、「石川県でも何か起こさなくては」と、同世代の仲間で集まって勉強しようと「新生九谷会」を作った。英国の思想家であり、デザイナーでもあるウィリアム・モリスが始めた、アーツ&クラフツ運動の勉強もした。
また、三代德田八十吉、松本佐一ら、仲間7人で共同工房「旭窯」を築き、仕事の傍ら、互いに刺激し合いながら創作活動にも励んだ。海外での展示会への出展も積極的に行った。「いろんなこと、やりましたよ」。皆、次々名を成していった。「活動は10年続けました」。

中/祖父の作品。ネズミのヒゲで絵を描いている。
右/春らしく、山吹を描いた皿を持つ𠮷田美統さん。
釉裏金彩で具象表現を追究し始めてしばらく経った頃、東京・数寄屋橋にあった〈銀座むね工芸〉で、𠮷田は自らの作品を、哲学者であり、法政大学総長も務めた谷川徹三(詩人・谷川俊太郎の父)に、酷評される。
「こわい人やったです」。ちょっと色気を出して、金彩だけでなく、赤絵を組み合わせてみたところ、「くだらんことをする。品が悪くなるではないか。金なら金だけにしなさい。作品の品が悪いのは、君の品が悪いからだよ」との評。
ありがたかった。「シンプルにいけ」と言われ、腹が決まった。ここまでぶれることなく仕事を続けられたのも、谷川の助言のおかげかもしれない。
𠮷田の茶室を訪ねると、そこに置かれている作品から、進化の過程がよくわかる。初めての釉裏金彩の「い草文」もある。谷川に叱られた作品もある。そして、現在の作品。
「素材はすべて九谷。伝統の上に成り立っています。しかし、昔のままに留まっていると写しの産業になってしまう。伝統工芸には『今』を入れていくことが大事なんです」
釉裏金彩を施す器胎の色は、緑釉に始まり、黄、紫、紺青、赤の九谷五彩がベース(紺青に代わり、𠮷田は銀ねずを使用)。繊細で優美。しなやかな曲線で描かれた有機的な文様は、見る者を深い幽玄の世界へと導いてくれる。
𠮷田 美統(よした・みのり)
1932年石川県生まれ。1979年日本伝統工芸展奨励賞受賞。1992年日本伝統工芸展高松宮記念賞受賞。1995年日本陶磁協会賞受賞。2001年「釉裏金彩」で人間国宝に。
photographs Naruyasu Nabeshima
text Michiko Watanabe
お帳場通信 2015 春号 掲載