人間国宝を訪ねて⑦
林 駒夫 人形/桐塑人形

人間国宝とは、重要無形文化財保持者のこと
初めて、本物の京都人に会った気がした。林駒夫の自宅があるのは京都御所の蛤御門の間近。周囲には、烏帽子や装束を作る店が何軒も連なる。
時代を遡れば、公家屋敷が立ち並んでいた場所。林家は天明の大火で家も寺も焼けたため、それ以前のファミリー・ヒストリーは不明だが、天明以降の初代となる清七はとんでもない親孝行だったらしく、近所の五人組が奉行所に上申し、徳川十一代将軍から御褒美をいただいたのだそう。それを資金に料理旅館を始めたため、金子(きんす)自体はもうないが、包み紙は今も保存されている。二百数十年前の話を、つい先日の出来事のように話す林は、やっぱり京都人だ。
そんなわけで、林家は代々料理旅館を営んでいたが、戦時中、強制疎開で近くの公家屋敷の一角に引っ越さざるを得ず、旅館は廃業。今もその家に住む。どんなに戦争が激しくなっても、家の中はいつも通り。春がくればお雛様も飾る、端午の節句も祝う。それが普通のことだった。身の回りにあるものもずーっと変わらず。クーラーもないし、サッシの窓もない。それが京の町屋を受け継ぐことだ。林家にとってはごく普通の日常である。

右/林の仕事場は2階にある、わずか3畳の間。
クラシックなものに囲まれて育った林少年は、幼い頃から一風変わっていた。戦中は何も読むものがないから、蔵にあった『文芸倶楽部』や『演芸画報』『清元全集』などを片っ端から読んだ。少し大きくなってからは、歌舞伎や人形浄瑠璃にも触れた。舞台装置に興味を持ち、中学生のとき、伊藤熹朔の舞台美術の本が出ると早速買い求めた。本屋には「子供がこんな本買うて、どうすんねん」と言われたが。
伊勢物語や源氏物語を読み始めたのもこの頃だ。「伊勢物語がおもしろくてね。文章だけだけど、僕の中では装束を着た登場人物が形になって色がついて見えてくる」。そして、能に出会う。高校生になると、旧金剛能楽堂にスケッチブックを持って通った。当時は五番立(ごばんだて)で、林少年は初番から切能までずっと見ていたという。「いいなぁ」と思って見ていたのではなく、「ただただ、形がおもしろかった」からだ。
たくさん描いたスケッチが今も残っている。「人間が体を遣って美しい形を見せる。それも装束を介して。そこに興味があったんだと思います」。装束や文様にも魅せられた。頻繁に能を見るうちに、次第に、能の構えや舞の流れが自分に親しいものになっていった。

歌舞伎や舞踊もさんざん見て回り、踊りを習いたいと思ったが母親に反対され、仕舞ならいいということで能楽部に入る。当時の高校には能楽部が普通にあったのだそう。狂言や謡のお稽古に通った。さらには、舞楽や伎楽まで、何に興味を持っても非凡な力を発揮し、謡を習えば能楽師に、また、能面師にならないかと誘われる。
比叡山の阿闍梨には、うちの小坊主にならないかと言われる。もし、ついて行っていたら、今頃、大行満大阿闍梨(だいぎょうまんだいあじゃり)になっていたかも、また、中学の頃好きだった清元も、もしもあの頃から突き詰めていたら、今頃、国立劇場でブイブイ言わせていたかも、と笑う。「一生懸命学んでいくというより、純粋にやりたくて、知りたくて、好きなものを追求していた。いや、追求やない、遊んでただけなんです」。
家には時折、旧伯爵のお公家さんが逗留した。子供時代、その方から公家ならではのしきたりや装束の話、いろいろなことを聞かせてもらった。「地下(じげ)の者(昇殿を許されていない人)なのに」有職故実(ゆうそくこじつ)を自然に身につけていく。話を聞くうち、だんだん、いつの時代のことかわからなくなってくる。
図書館に行って、戦前の能装束の本を一冊丸写ししたりもした。文様はトレースして切り抜いて、本と同じように貼り付けた。「奥付まで書き写してました」。頭の中が、能装束&文様大全みたいになっていた。仮想の世界が好きだったから、この能面にこの装束、この曲がええかな、と一人描き込んで楽しんでいた。
ここらあたりで、人形制作に行き着くまでの準備は整いつつあったと言っていいだろう。ただ、本人はまだ人形づくりに目覚めているわけではなかったのだが。

右/大田蜀山人が林家の親戚の家で揮毫(きごう)したお軸。
林少年は中学のとき、「人を見はる」お上人がいるという醍醐寺に連れて行かれる。そこで「将来あんたは木と紙と裂の仕事をする」と言われる。そのときは「ふぅん」ぐらいのことだったかもしれないが、このご託宣が、そのうち次第に現実味を帯びてくる。
高校を卒業するときになって、就職する気なし、進学する気もなし。そんな林に母方の親戚から声がかかり、本友禅の世界へ。ここでもまた力を発揮する。「いい色出してね、手も早い(笑)」。だから、仕事が引きも切らず。あらゆるものをつくった。
それが生業だったのだが、ちょうど四条に、京人形の第一人者、十三世面庄(面屋庄三)が人形教室を開いたことで、林はにわかに人形づくりへと人生の舵を切ることになる。雛頭、御所人形に惹かれ、ここで「きちんとした」京人形の基本を学ぶ。「でも、それは昼間の世を忍ぶ仮の姿(笑)」。夜になると、人形制作に没頭した。「能の姿を形にしたい」思いが叶ってきた。
楽しくて仕方なかったのでは?と尋ねると、「楽しいとも思わなかった。ただ、自分の書く小説のファンで、この先、どんな文章が連なるのか読みたくてやめられない、といった感じです」と。いやいや、きっと楽しかったはず。ちょっとシニカルなのも京都人?

右/月を見上げて歌を詠んでいるのだろうか。「弄花」。
友禅は生業だったけれど、人形のきものづくりの役に立つ。「人体が何かをまとうということは、その素材の色や文様が意味を持つということ。威厳だったり、雅だったり、内容を表すんです」。京都で生まれ、京都で育つ、それも平安の典雅な世界がすぐそこに息づいている環境で育った林は、生まれながらにして身についているものが、そもそも違うのである。
しかも、人の何十倍も好奇心、探求心が旺盛なのだ。そりゃあ、そんじょそこらの、にわか勉強家ではたちうちできないに決まっている。親戚にはお茶屋さんもいて、祇園の舞妓や芸妓のしきたりについても、事細かに教わった。花街には踏んではいけない地雷が山のようにあるからだ。かつらも「また得意でね」。高校時代、難しい本を買ってきては書き写し、頭の形や結い方を学んでいた。
舞台衣装や能の作り物・小道具などについても同様である。好きこそ、ものの上手なれ、などというが、まさにその通りである。すべての川が海に注ぐように、これまで培ってきた、いや、そんなつもりではなく、ただ好きでやってきたことが有機的に結びつき、ひとつの道を指し示し始めたのである。そう、ご託宣の通り、木と紙と裂の仕事!
伝統工芸展に出すようになったきっかけも、なりゆきだった。それまで、公募展に出すことなど、まったく興味がなかったが、結婚することになったときに、お仲人から、「新郎の紹介をするときに、好きで人形つくってます、ではどうにもならへん。せめて、伝統工芸展に出してる作家ぐらい言わせて」と言われたためだった。
初出品では入選するも、2回目は落選。3回目以降は連続入選。しかし、いろいろあってもう人形をやめようかと思いつつ出した第20回(1973年)で、思いがけず、日本工芸会総裁賞を受賞。これには驚いた。ただ、この時点では、生活はあくまで友禅で賄い、人形づくりは余技だった。この総裁賞のおかげで、やっと、人形づくりに専心できるようになっていく。

右/笑顔の林駒夫さん、ご自宅にて。
林の人形は桐塑でつくる。
桐塑とは、桐を挽いた粉に生麩糊(しょうふのり)を加えて練ったものだ。まず、木彫で芯を作り、桐塑で肉づけをする。桐塑は粘土のようにぽってりしたもので、たやすく成形でき、乾けば、自由に彫ったり削ったりもできる。木彫したボディの厚みが足りない部分や細やかな表情にしたいところに、桐塑をヘラでのばしながらつけていく。次に、胡粉(ごふん)で目や鼻、唇、耳など顔立ちや衣のひだなど、繊細な部分に表情をつけるのである。
それから、和紙を貼り、肌や髪、衣装を表現していく。衣装や小物はこの時点で準備するのだが、友禅の技術を持つ林にとっては、ある意味たやすいこと。装束についての細やかな決まり事、文様、小道具の扱い方にしても、これまで培ってきた知識が遺憾なく発揮される。
仕上げに、眉、目、口を描き入れるのだが、これを「開眼」という。仏像の開眼と同じである。緊張を余儀なくされるが、林は平常心で心静かに行うという。人形に命が吹き込まれる瞬間である。
何ともいえない品格と愛らしさが漂う林の人形は、その背後にある有職故実、また、伝統芸能への底知れぬ造詣の深さがあってこそ、そして、林自身の曇りのない純粋な創作への思いがあってこそ、輝く。京都という都でないと生まれない、何百年も変わらず続く、育ってきた環境がなければ、決して生まれなかった作品群である。
林 駒夫(はやし・こまお)
1936年京都市上京区生まれ。1973年日本伝統工芸展で日本工芸会総裁賞受賞。2001年京都府文化賞功労賞受賞。2002年重要無形文化財「桐塑人形」保持者認定。2004年紫綬褒章受章。2007年京都市文化功労者認定。2009年旭日小綬章受章。
photographs Naruyasu Nabeshima
text Michiko Watanabe
お帳場通信 2017秋号 掲載