人間国宝を訪ねて⑩
原 清 陶芸/鉄釉陶器

人間国宝とは、重要無形文化財保持者のこと
原清の、ひと抱えもある大きな壷に描かれた馬を見て、ラスコーの洞窟絵を思い出した。原の馬は、先史時代に描かれたようなプリミティブな素朴さを秘めつつ、フォルムは洗練の極み。天まで昇っていくのではないかという軽やかな足どりに、思わず惹き込まれる。
眺めていて、あきることがない。そのうち、愛おしくなって、壷ごと抱きしめたくなる。大鉢の周りに咲く草花、木々の間で羽根を休める鳥……。原が作品に表す植物や動物へ注ぐ視線は、限りなくやさしくて温かく、慈愛に満ちている。

原は島根県簸川(ひかわ)郡(現・出雲市)に、農家の息子として生まれる。陶芸とは縁も所縁(ゆかり)もない家だ。それがなぜ、陶芸家に? そこには、天の采配としか思えないような人生が待っていた。運命の糸に導かれて今がある。
簸川郡は簸川平野を擁する米どころ。北へと米を運ぶために、北前船の寄港地であった美保関から小船で、原の住む米の集積地へとやって来る。船は九州から上がってくるときには、唐津や伊万里のやきものを運び、今度は米を積んで北へと下っていく。そのため、船着き場のあたりには、やきものの破片がいっぱい落ちていた。
それを見た原少年は、「きれいだなぁ」と思う。雨上がりに最初に拾った磁器の破片は、青い色で文様が描いてあった。今日ひとつ拾うと、翌日またひとつ。あっという間に、かけらコレクターとなる。きれいに洗って縁側に並べて眺めるのが嬉しかった。やきものに関心をもった始めである。

右/鉄釉草花花鳥文花瓶 径16×高さ20.5cm
高校は農業科に進む。その実習園のそばに、陶芸をやっているところがあった。ふと覗くと、職人さんたちが手品のようにいろんな形を作っていく。冬の寒い日に、黙って覗いていたら、職人さんが中に招き入れてくれた。そこは職業補導所(現・職業能力開発校)だった。見ているうちに自分もやりたくなってきた。「生まれて初めて、おもしろいものに出合ったんです」。
そこで、高校は1年で辞めて、補導所に飛び込む。「自分で言うのもヘンだけど、何をやっても懸命にやるタチなんです」。京都から来ている先生も、そのうち、原、原と重宝するようになる。その先生のツテで京都の工房へ。もちろん最初は、丁稚奉公的なものだが、ここで、原の一生を運命づける石黒宗麿との出会いが待っていた。
ある日、「石黒先生が10日ほど、仕事をするためにいらっしゃるから、手伝いをしなさい」と、社長から申しつけられる。石黒といえば、京都では知らない人はいないほどの有名人だが、出雲のぽっと出小僧には知るよしもなく。でも、石黒が制作中は、つきっきりで、細やかにアシストを務めた。「自分としてはあたりまえのことをしていただけなんです」。すると、石黒から「預かってもいい」という話が舞い込む。社長に相談すると、「君が立派になることが恩返し」と、許しを得て石黒のもとへ。

右/釣窯壷 径24.6×高さ26cm
内弟子となった原だが、最初に、ろくろや土に触ることはならぬと言い渡される。何はともあれ、すべてを預けよう。「今日で死ねと言われたら、死んでもいいというくらいの覚悟でした」。朝は7時に朝食を出すから、それまでに、犬2匹の散歩と、庭に箒の目を入れておくように、と言われる。そんなの簡単、1時間もあればできる。そう思っていたら、犬は仲が悪くて1匹ずつしか散歩ができず、庭は600坪もあって時間がかかる。初日は終了が10時半。当然、大目玉をくらう。お詫びをして、次の朝から4時に起きた。
ある冬の日、庭に積もる雪を見て、今日は箒の目は入れなくていいだろうと勝手に判断。すると、またまた大目玉。「ここは八瀬のあばら家だけど、ここでやっていることは大きなお寺と同じこと。あばら家でも修行はできるんだ」と、石黒。以来、不思議なのだが、人生観が変わったみたいに、朝が楽しくなってきた。お坊さんと同じ修行をしているという自信のようなものか。そのうち、犬の散歩をしながら俳句が浮かぶ。そうなると、これまで見過ごしていた草花がハッキリと目に映る。ものの見方や考え方も少しずつ変わってきた。

右/コテで茶碗の形を整える。
この1年は、原という人間をつくるための、まさに人間修行だった。「これからは、やきものを学ぶように」と、石黒の差配で、清水卯一のもとへ。最初の仕事は、オリジナルの湯飲み作りだった。持ったときに、ボールを持ったときのようなバランスを狙った。これが飛ぶように売れる。ひたすら作った。清水が留守のときは、帰ったら驚かそうと普段以上に多く作った。
「評価されようがされまいが、そういうことを続けていると、振り返ってみたとき、それは損をしているように思えるが、実は大きな徳になっていたんですね」
あるとき、清水から「日本伝統工芸展に出してみてはどうか」と言ってもらう。仕事を終え、夜、くず土をこね、朝、アドバイスをもらう。そうやって作品を作り、出品すると、24歳で入選を果たす。作家活動もし、近所づきあいもこなしながら10年。周囲からは、清水の番頭さんのような信頼を得ていた。そのおかげで、独立して世田谷に窯を構えたのちも、電話1本で材料の調達ができたのである。

さて、原独特の鉄釉陶器はいかにして生まれるのか。原理としては、黒い釉薬をかけたのち、ラテックスという生ゴムの液で文様を伏せる。その上に褐色の釉薬をかけ、生ゴムをはがせば文様が浮かぶということだ。ちょっと、ろうけつ染めの手法にも似ている。原理はシンプルだが、そこからが重要だ。黒と褐色の釉薬が同じ温度で溶けてくれないと、うまくいかない。
片方が早く溶けると、文様がにじんでしまう。と同時に、重ねた褐色の釉薬が黒よりもちょっと強くないと文様として残らない。同じ温度で溶ける同じ成分の釉薬でないと、うまくいかないのだ。試行錯誤を重ねるうち、2つの釉薬が同じ状態で黒と褐色に分かれるようになる。「清水先生は釉薬の大家でいらした。そのおかげで、釉薬の勉強を随分させてもらいましたから」。

それまで文様をつけなかったのだが、これがおもしろくなった。どんどん続けるうち、しまいには「弱っちゃったな、なんで、こんなことを始めようと思ったんだろう、てなことになる。そこで、原点まで戻る。自分で感動し、見たお客様も感動してくれる作品。もう一度そこに戻って、やり直してみよう。今、そこから動き始めたところです」。えええっ!?
「絵描きさんは真っ白な平面に絵を描くけど、陶器の場合、形そのものに十分に訴えるものがありますからね。そこに文様をつけるのは、絵を描くのとは発想が違う。文様に重みはないけれど、その文様の塊が、ひとつの形をどれだけ力強くできるか、重みをもたせることができるか。それを案配するのがやきもののおもしろいところです。うまくいくときもあれば、うまくいかなかったこともある。でも、もっと続けたい。それが“今日”です」
これで、よかったのか、もっと別のところにいくべきだったのではないか。いつも、そんな悩みのようなものはあると言う。
たとえば、葡萄のくるくるっとしたツル。「葉を並べて、ツルをどこにつけるかで、葡萄が葡萄らしくなるかどうかが決まる。生き生きしたり、だらしなく見えたりする。生きる線、生きる点がある。そのあたりが明確に見えたら、どんなにおもしろいだろうと思う。今、手探りですよ。ここでなきゃならないというところに付けられたかどうか。いまだに悩みますよ。朝から晩までそうですよ」。全身小説家ならぬ、全身陶芸家だ。
「人の心を捉える何かがなければ、作品ではない。見た人の感情を動かせなければ、作品ではない。それには、作者がおしゃれでなくちゃ。あ、心のおしゃれですよ」。今年で84歳(取材当時)。その姿にも作品にも、年齢を感じることはない。少年のようなみずみずしい感性は今なお健在だ。
原 清(はら・きよし)
1936年島根県生まれ。石黒宗麿、清水卯一と、近代鉄釉陶器を代表する2人の人間国宝に師事。1969年日本伝統工芸展日本工芸会長賞受賞。1980年埼玉県寄居町に居を移し、「鉄釉」で独自の世界を築く。2005年「鉄釉陶器」で重要無形文化財保持者(人間国宝)に。
photographs Naruyasu Nabeshima
text Michiko Watanabe
お帳場通信 2020-21 秋冬号 掲載