人間国宝を訪ねて⑭
桂 盛仁 金工/彫金

人間国宝を訪ねて⑭桂 盛仁 金工/彫金のメインビジュアル


人間国宝とは、重要無形文化財保持者のこと

桂盛仁の金具は何だか色っぽい。ぬめっと濡れたような肌が、その作品が金属製であることを忘れさせ、一体、何でできているのか、触れてみずにはいられない。そして、柔らかく温かそうな作品が、ひやりと冷たく硬いことに驚いてしまうのである。

桂には、室町時代から続く伝統彫金のDNAが脈々と流れている。現在につながる彫金の技術が確立したのは室町時代と言われるが、その頃から、武士の命、刀を彩る鍔(つば)や目貫(めぬき)、笄(こうがい)といった刀装具や甲冑には、技巧を凝らした細工が施されていた。

伝統彫金の極致と『源氏物語』浮舟薫爐の画像
左/『源氏物語』浮舟薫爐
右/鏨(たがね)と金鎚が生む伝統彫金の極致。

桂の出自は、江戸初期の町彫りの彫金家・横谷宗珉の弟子である柳川派にある。江戸時代にはいくつもの派ができ、技を競い合ったのだが、柳川派もそのひとつだった。桂は、その技を伝承する弟子筋になる。師は父・盛行だ。

父は、桂光春を伯父に持つ。盛仁からすれば大伯父である。光春といえば、大正、昭和期に一世を風靡した人物。

「明治期の彫金の神様と言われる加納夏雄、海野勝珉、うちの系図のトップに位置する豊川光長の一番弟子、桂光春らは、いわば彫金界のレジェンド。その作品は、今もってコレクター垂涎の的なんですよ」

父は伯父には師事せず、その弟子で娘婿にあたる、やはり名人と呼ばれた鈴木春盛に師事。名も、春盛の盛をいただいて盛行に。父はとても小さい人だったうえ、耳が不自由だった。そのため、出かける仕事は母が引き受けていた。

戦前はきものを着る人が多く、帯留をはじめ、和装小物をつくる仕事が多くあったが、戦後、洋服中心の生活になると、仕事が激減した。だから、彫金の仕事であれば、喜んで引き受けていた。

「帯留金具には、彫金の技術のすべてが入っているので、何だってできるんですね」

椿の作品と制作している画像
左/椿のデッサンがこんな風に。
右/一枚の板を打ち出して立体をつくり出す。

小学生だった桂は、母の代わりに裏張りなどを依頼したり、注文の品を届けるために、御徒町や上野、鶯谷などに使いに出た。子供なら電車賃も半額で済む。生活のために、少しでも節約しようという知恵である。

中学生になってからは、「ボロ自転車」で行った。父と同年代の社長さんと話をしながら、職人さんたちが何をしているのか見たかったからでもあった。いくら見ていても飽きることはなかった。「なるほど、そうやるのか」。毎日、そんな日々だった。

「昔から、彫金の仕事は畳一畳あればいいって言われていましてね。机が4分の1畳、そこに人が座って半畳。残り半畳に、火床になる火鉢と、地金を延ばしたり形づくるときに使う金床を置く。これで仕事ができた」

戦後すぐは、肩を寄せ合うような狭い家だったから、父はミカン箱を机代わりにして、押し入れで仕事をしていた。

桂は、工芸高校の金属工芸科に進学。ここで、彫金、鍛金、鋳金の基礎を身につける。だが、そこは思春期。「食えない仕事」の彫金ではなく、もう少し華やかな仕事をしたいと思うようになる。亀倉雄策に憧れ、グラフィックデザイナーの道へ。

ところがこの道、甘くはなかった。入社後すぐに電通に出向するも、1年も経たないうちに出社拒否状態に。しまいには無断欠勤、ふて寝の日々。あえなく挫折。

結局、父の「何かやれ!」のひと言で、彫金の道へ。「へんな経緯ですねぇ」と桂は笑うが、そうなることを一番望んでいたのは両親かもしれない。

棗に飾りを彫り込む様子とたがねの画像
左/棗に飾りを彫り込む。
中/小さなつまみをつくるときの鏨(たがね)。
右/3,000本以上ある鏨は、すべて手づくり。

父に師事はしたものの、あくまで職人。言葉で説明をしたり、手とり足とり教えてくれるなんてことはなく、ひたすら見て覚えるしかなかった。でも桂には、それまでに細胞レベルで蓄積されている「彫金力」があった。父も「いろんなことを覚えてるから大丈夫だよ」と。

実は桂は、学生の頃から展覧会に応募するのが好きで、グラフィックデザインのコンペにも随分とチャレンジした。「全部、落選しましたが(笑)」。なので、彫金をやるなら、絶対、日本伝統工芸展には出したいと、丸1年後に、支部展(東日本伝統工芸展)、部会展、日本伝統工芸展に2点ずつ出品。すべて入選し、驚愕のデビューを飾る。

彫金の仕事を始めて、わずか1年のこと。力のほどがわかるではないか。

父もこの頃になると、作品を制作する余裕もでき、日本伝統工芸展にも何度か入選を果たし、審査員を務めるまでになっていた。そして、作品づくりに没頭したいがために、以前のような仕事は断ることが多くなる。代わりに、評判を聞きつけた人たちのリクエストで、父は彫金の指導を始めていた。

兜虫金具と制作場所の画像
左/兜虫金具 縦2.5×横5.5×高さ1.5cm
右/生き生きとした昆虫や動植物は、ここから生まれる。

一方、桂は、26、27歳の頃、百貨店で友人らとともに、アクセサリーのポップアップショップを開くチャンスが訪れる。ちょうど、日本が好景気に沸いている時期で、売れ行きは上々。

気をよくした百貨店は毎年やることに決め、さらには、その支店にも招聘され、このショップ・イベントは、以後30年近くも続く。桂にとっては、ありがたい話だった。「おかげで、結婚することができ、妻子を養うこともできたんです(笑)」。

鹿打出し器と金を打ち出している様子の画像
左/鹿打出し器 径19×高さ10cm
右/金を打ち出す。

日本の彫金の妙味は、その色の表現にもある、と桂は言う。ヨーロッパで彫金に用いるのは、金、銀とプラチナ。つまり、黄色と白の2種のみ。あとは宝石で色を表現する。日本はヨーロッパのように宝石がとれないので、地金の色で多彩な表現をする方法が編み出されていた。

金の黄、銀の白、赤銅(しゃくどう)の黒、四分一(しぶいち)のグレー……。赤銅は日本で発明された合金で、これを応用して、銀と銅の合金である四分一が生まれたのだという。この金属の色みがおもしろいとヨーロッパで使われるようになったのだが、彼の地には元々ないものなので、シャクドウ、シブイチと、日本語のままに呼ばれている。

桂の作品の特徴のひとつが、一枚の平らな地金の板から立体を打ち出すこと。そして、その高さが誰も真似ができないほど高く、この上なく繊細なふくらみを見せていることである。

写真の「兜虫金具」を、あるいは菓子器のつまみのかわいい鹿を見てほしい。これ、型に板をのせてパコッと押して形をつくったのかと思いきや、さにあらず。「それは大量生産の話。そんなことしたら、破れてしまいます」。

桂 盛仁さんの画像と金床木台や金鎚・木槌などの画像
左/多彩な技法を磨き未来へとつなぐ、桂盛仁さん。
中/小さく見えるが、ひと抱えはある金床木台。
右/ものすごい数の金鎚や木槌など。

平らな地金を、鏨(たがね)でやさしくトントンと叩きながら、持ち上げているのだという。それも裏からではなく、表から。「回りから寄せてくるんです。『しぼる』というんですけど、寄せて持ち上げるんです。叩いていくことで、地金の中で粒子が動く。叩いては鈍(なま)し、鈍しては叩く。そうやって地金をあちこち動かして、厚みを同じにしていくわけです」。

桂の香爐には、鹿やリス、カタツムリなどがつまみとして添えられているが、これは四分一でつくられたものだ。四分一という金属は非常に硬く、延ばしにくいうえ、熱にもろく溶けやすい。だから、その一枚板の打ち出しで、動物たちを生き生きと表現するなどということは、桂にしかできない驚きの超絶技巧なのである。

彫りにも象嵌(ぞうがん)にもさまざまな技法があって、知れば知るほど、深い世界に引き込まれていく。伝統の技法を伝承しつつ、現代的で比類のない作品群を生み出し続ける桂のエネルギーには、ただ圧倒されるばかりである。

桂 盛仁(かつら・もりひと)
1944年東京都生まれ。1971年第18回日本伝統工芸展入選。以後、毎年出品。1995年第25回日本金工展文化庁長官賞受賞。1998年第45回日本伝統工芸展東京都知事賞受賞。2008年重要無形文化財「彫金」保持者に認定。東北芸術工科大学客員教授。桂彫金塾主宰。

photographs Naruyasu Nabeshima
text Michiko Watanabe
お帳場通信 2018 夏号 掲載