2023.3.10 UP
狐の好物とされる油揚げを使う稲荷寿司。狐は五穀を司る稲荷神の神使であることから、その名がついたという。一方、稲荷寿司の別称「しのだ寿司」の名は大阪・和泉市の信太(しのだ)の森にある葛葉稲荷神社が由来だ。この神社は陰陽師、安倍晴明の生まれにまつわる伝説の舞台である。
その昔、信太の森に棲む白狐が追われて傷ついているところを安倍保名なる者が助けた。白狐を追っていた男との戦いで怪我をした保名を介抱したのが葛葉と名乗る姫。2人はやがて恋仲となり、男の子をもうけるが、ある日、葛葉姫は狐の姿を息子に見られてしまう。「恋しくば尋ねきてみよ和泉なる 信太の森のうらみ葛の葉」という一首を残し、葛葉姫は信太の森に帰っていく。そしてこの男の子がのちの安倍晴明である、というのが伝説のあらましだ。この子別れの悲話は浄瑠璃や歌舞伎の題材として有名となり、信太という名も広く知られるようになったのだ。
神田にある本店。近代的なビルだが風情のある暖簾、格子が古の雰囲気を伝えている。
しのだ寿司、という名前は江戸時代には知られていたことが江戸末期の風俗を解説した「守貞謾稿」からわかっている。同書の稲荷寿司(またの名を篠田寿司)についてのくだりでは、非常に安価な寿司だったことが記されている。<神田志乃多寿司>の四代目原田勝信さんによると、当時の稲荷寿司は、人足など力仕事に就く人たちの小腹満たしに重宝されたらしく、シャリも今よりずっと多かったという。そして、味付けも酢と塩だけで、今のすし飯に比べてずっと酸っぱくしょっぱかったらしい。
<神田志乃多寿司>の「志乃多」は、油揚げ、シャリ、れんこんとシンプルな構成ながら、ひとくち食べれば旨みがじんわり染み出し、余韻も長い。このおいしさが家庭で再現できないという声について原田さんは「まずは作る量の問題」と言う。油揚げは一度に1500枚を煮る。1枚から2個の稲荷寿司ができるから一度にできるのは3,000個分である。さらに、砂糖は数種類を組み合わせ、醤油とみりんでこっくりと煮含める。この油揚げを一旦煮汁から引き上げて一晩おき、翌日煮汁に戻して一煮立ちさせる。
煮返すことで油揚げの色は一段と濃くなり、ツヤも出る。
煮上がった油揚げはそのまま食べるとかなり甘い。甘すぎるくらいだ。しかし、ここに酒粕から造った赤酢と塩だけで調味したシャリを合わせるとピタリと味が決まる。甘い油揚げと酸っぱくしょっぱいシャリが織りなす絶妙の調和、ここに甘酢煮のれんこんがシャキシャキとした歯ごたえをもたらし、<神田志乃多寿司>の銘品が完成するのである。
油揚げの中に甘酢煮のれんこんをふた切れほど入れる。
れんこんの上にシャリをひとつかみ、ふんわりと入れる。シャリの量は50gほど。
余分なシャリを取り払い、閉じ目を下にして軽く押さえて形を整える。
創業以来120年に渡って受け継がれてきた<神田志乃多寿司>の寿司は、時代の波に揉まれながら少しずつ変化もしている。しかし、それは伝統の味を守るためだ。例えば、砂糖は昔に比べ、精製度が上がっている。こうした素材の変化に加え、人々の嗜好も変化する。甘さ控えめが好まれる傾向があっても、流されることなく、味の真髄は変えない。そのさじ加減は職人の経験と勘でコントロールする他はない。「長年のお客さんから変えなくていい」と言われるのは励みになる、と原田さん。変わったと感じさせないことこそ、職人技なのである。
<神田志乃多寿司>4代目の原田勝信さん。この道に入って40年。
代表作とも言える「志乃多」と並ぶのが干瓢の「のり巻」、そして「太巻」である。干瓢はたっぷりの中ざら糖と醤油で煮てつやつやとした濃い飴色に仕上げる。そのまま食べるとこれまたすこぶる甘いのだが、だからこそ赤酢と塩のみで仕立てたシャリとは完璧な相性。
しっかり甘い干瓢と酸っぱくてしょっぱいシャリのバランスがとても良い。海苔は昔から東京湾で採れるものを使用。香りが違うという。
濃い飴色に煮上げた干瓢。ツヤがまた食欲をそそる。
一方、「太巻」には米酢と砂糖と塩で仕立てたいわゆるすし飯を使う。椎茸、れんこん、海老と白身のおぼろ、玉子、きゅうり、干瓢と個性もさまざまな具をすし飯が包み込んで全体をまとめている。
色とりどりの具がたっぷり入った太巻。甘味、酸味、塩味、旨み、そこへきゅうりやれんこんの歯ごたえが加わり、なんとも賑やかで楽しい◦
「志乃多」、「のり巻」、「太巻」が収まる折(おり)もまた、<神田志乃多寿司>ならではの独特の風情をまとっている。折蓋には、原田さんの祖父である2代目原田直翁さんが交流のあった日本画家、谷口六郎氏に描いてもらったという愛らしい子供の姿、その上にはKANDA SHINODA SUSHIという文字がのり、レトロとハイカラが入り混じった不思議な雰囲気が漂う。さらに包み紙にはやはり2代目が洋画家の鈴木信太郎氏に依頼した、西洋人形のような女性の姿と植物が明るい黄色を背景に描かれている。パッと見ただけでは中身が想像できないところが粋な遊び心を感じさせ、そこに彫刻家がデザインした<神田志乃多寿司>の文字が一層の味わいを添えている。一目で「神田さんのお寿司」とわかるところがまた、時を超えて愛される理由なのかもしれない。
一見、洋菓子が入っていそうにも見える包装紙、郷愁を誘うイラストが描かれた折り箱、どちらも印象的なデザイン。
志乃多(5個入)724円
志乃多のり巻(8個入)1,113円
「志乃多」、「のり巻」ともに赤酢と塩で調整したシャリを使い、それぞれ甘めに煮上げた油揚げ、干瓢と合わせた、江戸の味を今に伝える寿司。「のり巻」の海苔は創業以来、東京湾の海苔を使っている。選ぶ決め手はやはり味と香り。また、旬の走りに採れる1番海苔は繊細でシャリの水分に負けて溶けてしまうので、厚みと香りも十分な3番や4番海苔を使う。
太巻詰合せ 1,242円
米酢、砂糖、塩で調整したシャリを海苔の上に広げ、椎茸、れんこん、干瓢、きゅうり、おぼろ、玉子焼きの順に並べて巻いた「太巻」。断面が美しく、食べて満足度の高い「太巻」を中心に、「志乃多」、「のり巻」と、<神田志乃多寿司>の味を満喫できる詰合せは根強い人気を誇る。
昔いなり(3個入)692円
伊勢丹新宿店限定の手揚げ油揚げを使った稲荷寿司。手揚げは量が作れないため、現代ではほとんどお目にかかれない。<神田志乃多寿司>では昔馴染みの豆腐屋さんに頼んで特別に仕込んでもらっている。機械揚げに比べ、肉厚で豆腐の風味がしっかり残っているのが特徴。
しのだ・かっぱ・梅しそミニセット 724円
コクのある油揚げと酸っぱくしょっぱいシャリのハーモニーが絶妙な「志乃多」とさっぱりした梅しそ巻、かっぱ巻を少しずつ味わえるミニセット。虫養いにぴったり。
Text : Manami Ikeda
Photo : Yu Nakaniwa、Yuya Wada