2022.10.31 UP
戦わずして婚姻によって広大な領土を獲得してきたハプスブルク家。その本拠であるウィーンは欧州きっての都として繁栄した。時は18世紀後半、ロココ文化華やかなりし頃、宮廷では宴席はもちろんのこと音楽や舞踏を楽しむ時にもとりどりのお菓子が供されるのが習わしで、貴重な砂糖をふんだんに使ったお菓子は「ツッカーベッカー」と呼ばれる専門の職人が作る特別なものだった。
ツッカーベッカーであったルートヴィヒ・デーネが、1786年に当時の王立劇場の舞台側入口の前に自分の店を構えたところ瞬く間に評判となり、1799年にはK&K(王室御用達菓子舗)の称号を与えられる。同年、ルートヴィヒが亡くなると店は妻が引き継ぎ、さらに息子アウグストの代へと変わった。店は変わらず繁盛していたが、アウグストは政界に転身することになり、職人長であったクリストフ・デメルに譲渡。1867年にクリストフが亡くなると息子のヨーゼフとカールが継ぎ、店名も「クリストフ・デメルの息子たち」と改められ、さらに1888年に現在の場所、王宮のすぐ傍のコールマルクト14番地に移転し、今日に至る。
ウィーン本店のカフェ・コンディトライ・デメル。大理石にシャンデリアの優雅なサロンは、ハプスブルク家の栄華を今に伝えている。
ウィーン菓子といえば、デメルとともに常に名前が挙がるのがホテル・ザッハ。1876年にオペラ劇場の隣に開業したホテルだ。時は少々遡って、創業者エドアルド・ザッハの父親フランツは見習い菓子職人として時の宰相メッテルニヒ仕えていた1832年にチョコレートケーキを考案。後にザッハトルテと呼ばれるそのレシピをデメルで働いていた時に完成させたのがエドアルドだった。デメルではそのケーキをオリジナル・ザッハトルテとして売り出し、エドアルドの息子もその販売権をデメルに託した。
ところがホテル・ザッハが「オリジナル・ザッハトルテ」の販売を開始。ホテル・ザッハとデメル、どちらが正統な作り手であるかを巡っての争いが勃発したのだ。第二次世界大戦後も両者による激しい法廷闘争が続き、ウィーン市民からはザッハトルテをどちらかの独占にしないでほしいという嘆願が裁判所に届いたほど、街を巻き込んだ大事件に発展した。「甘い戦争」と呼ばれたこの裁判は1962年にようやく和解。ホテル・ザッハは「オリジナル・ザッハトルテ」、デメルは「エドアルド・ザッハトルテ」を名乗ることが決まった。現在、デメルのザッハトルテには「フランツ・ザッハの息子、エドアルドによる正真正銘のザッハトルテ」と記された三角形のチョコレートが飾られている。
封印には「フランツ・ザッハの息子、エドワードによる正真正銘のザッハトルテ」と記されている。
日本に<デメル>のお菓子が登場したのは1988年。ウィーン菓子の魅力を広めたいとデメル・ジャパンが設立され、本場の味を忠実に再現するために職人2人がウィーンに派遣された。半年間の現地研修でザッハトルテを始めとするさまざまなケーキと、クッキーやチョコレートの製法をしっかり学び、オリジナルレシピを携えて帰国。34年を経た今もそのレシピは変わらず受け継がれている。
<デメル>のお菓子の華は、なんといってもザッハトルテ。ザッハマッセと呼ばれるチョコレートスポンジにアプリコットジャムを塗り、さらにチョコレートのグラズールでコーティングしたケーキは、シンプルでありながらも実に味わい深く、まさにウィーン菓子の粋を極めた存在。しかも、作り手にとっては高い技術を必要とするだけでなく、失敗の許されないお菓子でもある。
ザッハマッセに塗るアプリコットジャムを沸騰させ高温の状態を保つ。
まず、熱したアプリコットジャムは過不足なく塗らなければならない。少なければザッハマッセへ十分に浸透せず、多すぎると後でかけるチョコレートグラズールが崩れてしまう。
アプリコットジャムにザッハマッセを素早く潜らせる。
ジャムをくぐらせたザッハマッセから余分なジャムを取り除く。取りすぎても、残しすぎても味や見た目に影響する。
そして、そのチョコレートグラズールも砂糖の結晶の状態の見極めがポイント。結晶が強すぎると冷えてからヒビが入り、弱ければジャムやスポンジの水分で溶けてしまうのだ。また、グラズールは一気にかけて全体を完全にコーティングする。後からパレットナイフでならすこともできない、一度きりの勝負だ。
沸騰の泡が落ち着き、艶やかなチョコレートグラズールの状態になったところ。
チョコレートグラズールをかけていく。冷めると粘度が上がるので手早くテンポよく。
チョコレートグラズールが冷えて完全に固まったら、はみ出した部分をナイフで取り除く。
仕上げ工程には技術と経験を要するため、専門の職人に任されている。オリジナルレシピを忠実に再現しているが、多湿な日本の気候ではチョコレートグラズールを美しく保つことが難しく、砂糖の結晶化具合においてはかなり神経を使う。また、一気にかけて下に落ちたチョコレートグラズールは破棄せず再利用するが、何度も火にかけると砂糖が飴化してしまうため、再利用分は極力減らすことも職人の腕にかかっているという。
ザッハトルテ 日本製(3.5号)2,376円
デメル・ジャパンではザッハトルテの他にも、ウィーンのデメルの味そのものを堪能できるお菓子をいくつも手がけている。とりわけ生クッキーはそのしっとりとした食感と馥郁たる香りが際立ち、一度味わったら忘れられない。クッキーをベースに洋酒で香りづけしたマジパンやガナッシュ、プラリネ、ジャム、シロップ漬けチェリーなどを組み合わせ、形もタルトレット風、バトー型、三日月型などバラエティに富んだものが10種類。特製パッケージに並ぶ様子はさながら宝石箱のようだ。一つ一つにしっかりとしたボリューム感があるのもウィーン伝統のスタイルである。
生クッキーの一つ「マンデルピッツェン」。クッキー生地にキルシュワッサーを加えたマジパンを少量のせ、グリオットチェリー、さらに同じマジパンでチェリーを覆う。
表面にアーモンドスライスを貼り、チョコレートを絞り出してマンデルピッツェンの完成。
生クッキー日本製(1箱/10個入り)3,888円
マジパンやジャム、ガナッシュなどとクッキー生地を組み合わせた、しっとりとした食感の小菓子がオリジナルのボックス(写真)に詰め合わせられる。
他の焼き菓子も、ディテールまで計算し尽くされた王道感が漂う。
クライネクーヘン 日本製(6個入り/フィグ 3個、ピスタチオ3個)1,080円
しっとりとしたベースのケーキ生地。フィグは、ココア風味の生地でスウィートチョコレートガナッシュをつつみ、ラム酒が香る。ピスタチオは、サワーチェリーの入ったミルクチョコレートを香ばしいピスタチオの入った生地で包んでいる。
ココツィーゲル 日本製(8枚入) 1,080円
ココナッツ入りのラングドシャ生地で、ヘーゼルナッツペースト入りのミルクチョコレートクリームを挟んだ菓子。
もう一つ、<デメル>のこだわりを表現しているのがチョコレート。なかでも不動の人気を誇るのがソリッドチョコ 猫ラベルだ。蓋を開けると、極薄の可愛らしいチョコレートが小箱にぎっしり並んでいる。一枚をとって口に含むとピュアで上質なカカオの風味がふんわりと広がる。
ソリッドチョコ 猫ラベル 日本製(1箱)1,944円
優しい甘さのスウィート、まろやかな味わいのミルク、コクのあるヘーゼルナッツの3種類が揃っている。
王室御用達のスピリットと技術は、日本でもしっかりと受け継がれている。
撮影・岩本慶三
文・池田愛美